戯言

何をもってして”信頼”を定義するか

信頼とはなんですか?




最近友人が、
周りの人々を信頼できないと悩んでいます。

そしてそれによって、
自らのモチベーションが下がっていると悩んでいます。




どうも的確なアドバイスを伝えることができず、
困っている今日この頃。

信頼という抽象的で個人的な感情に対して、
何をどう言ったらいいものか。

僕には難しすぎます。

というか正直な話、
友人と僕とでは信頼というものの捉え方が違うのでしょう、
根本的に。

その友人は周りの人すべて(すべてといっても同じサークルの人間ですが)を
信頼したいと考えているようなのです。

でも今は特定の人としか信頼関係を築けていないと。

だから悩んでいるのです。

でも僕からしたら、
たとえそれが同じサークルのメンバーという限られた人数であったとしても、
それらすべての人と信頼関係を築くというのは不可能な話ではないかと思うのです。

しかしながらこれもまた、
信頼というものの程度にもよると思いますし、
友人と僕とが信頼という言葉に対して感じている重さの差異にもよると思うので、
一概にどうこう言うことはできないわけですが。。。

ただ僕は、
たとえすべての人と信頼関係を築くことができないとしても、
相手を信頼する努力はするべきであると思います。

前の記事にも書きましたが、
せっかく出会った人を簡単に嫌いになったり距離を置いたりするのは、
もったいないことだと思うので。

ただすべての人を心から信頼することなどできません、
少なくとも僕には。




だから友人にどんな言葉をかけてよいのか、
正直わからなかったし、今もわかりません。

ある意味で哲学的な話だとも思うし、
もしかしたら絶対的な解は存在しないのかもしれない。

たとえ絶対的解が存在したとしても、
少なくとも今の僕の経験値では、
その解に到達することはできない。

そう考えています。

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Tell a Lie

嘘はきっと、
麻薬のようなものです。

麻薬に依存性があるのと同じく、
嘘にも依存性があると思うのです。

少なくとも、
私はそうでした。

いや、
そうですと言うべきでしょうか。

嘘はつき通しているうちに、
恰もそれが真実であるかのような錯覚に陥らせ、
罪悪感が失われていくのです。

ついている嘘が深刻なものであればある程、
そして期間が長ければ長いほど、
どんどんと嘘が嘘でなくなっていくのです。


何故麻薬を引き合いに出したか?

それは酒や煙草よりも、
依存度が高いと思ったから。

私は少なくとも、
そう感じています。

クスリに手を出したことがないので、
本当のところ比較のしようがないわけですが、
感覚としてはそう感じています。

本当に手を出したことはないですからね?
こんなこと書いていますけれど(笑)


兎に角、
そう簡単に抜け出すことは出来ないのです。

少なくとも今の私は、
そう感じています。

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真意

埋もれた言葉の中から
ただ一つの真意を見付け出すのは
容易なことではありません。

その人との距離があればある程
それは途方もない作業に思われます。

けれどその人と親しければ親しいほど
不思議とその作業は苦にならないのです。

いえ、苦にならないからこそ
親しいと言えるのかもしれません。

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無慈悲

どうも記憶というものは、
美化されて海馬に蓄積されているような気がしてなりません。

今が辛ければ辛いほど、
余計に過ぎし日の思い出が美しく脳裏に浮かんでくるのです。

これが現実逃避というものなのでしょうか。

ですがいくら逃げようにも、
必ず現実は私に追い付いてくるのです。

世の中というのは、
現実というのは、
なんと無慈悲なものなのでしょうか。

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幽霊とか宇宙人とか

幽霊とか宇宙人とか、
別にいてもおかしくないと思うのです。




平べったいと思われていた地球も、
結局のところ丸かったわけだし、
地球の周りを太陽が回っていると思われていたけど、
結局のところ太陽の周りを地球が回っていたわけだから、
幽霊とか宇宙人がいたとしても、
別におかしな話ではないと思うのです。

今この瞬間はわかっていないことも、気付いていないことも、
10年後や100年後や1000年後にはわかっているかもしれない。




でも別に、いないと思っていても良いと思うのです。

少なくとも現時点でその存在が証明されていないのだから、
別にそんなものはいないと思ってもいいと思うのです。




それよりも僕は、そうして未知のものに対して自分なりの想像を働かせることが、
とても重要で尊い行為だと思うのです。

わからないから考えるし、
証明できないから調査する。

そういう行為が大切だと思うのです。




もしもその存在が確固たる証拠とともに証明されてしまえば、
そこで“いる・いない”の議論は終わってしまう。

だから僕は、
その存在が証明されていない瞬間が、
最も人々の知的好奇心を刺激し、
また人々の思考を輝かせるのではないかと思うのです。

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分析

理解ではない。

みんな、単に分析をしているだけだと思います。
そしてそれを正しと信じ切っている。


理解しようなんてしていない。
歩み寄ろうなんてしていない。

ただ、自分があたかも心理学者になったかのように、
読心術者にでもなったかのように、
他人の思考や性格を分析して、批判をしているだけです。




そう言っている僕も、
こうしてみんなを分析してしまっているわけですが…

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客観的

“客観”という位置関係は
その立場を取り続けていると、知らず知らずのうちに
“傍観”になってしまうのではないかと思います。

客観的思考の重要性は僕もそれなりに理解しているつもりですが、
もしも客観的思考が傍観者へと繋がってしまうのであれば、
僕は寧ろ感情に訴えた主観的行動の方が重要に思えます。

最近いろいろあったので、
こんなことを書いてみました。

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天地の差

言葉を覚えることと
それを遣いこなすこととは
恐らく天と地ほどの差があるのです

自分の深い部分にある根源的な思いを
どの言葉を遣い如何に言語化するか

僕等人間は多かれ少なかれ
そのことに日々悩み苦しんでいるのです

しかし同時に
この悩みは我々人間にしか生まれない
特権のようなものだとも思うのです

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見極め

見えないものというのは

本当は見えないんじゃなく

ただ気付いていないだけか

もしくは目を逸らしているだけなのではないかと思うのです

見えないものなのか

気付いていないものなのか

見たくはないものなのか

その客観的な見極めが

もしかしたら自らの人生において

多分に重要な意味を持っているのではないかと

最近よく思うのです

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